LOGIN灰戸港から三駅離れた歓楽街の外れに、二十四時間営業の漫画喫茶があった。看板の半分は照明が切れ、入口脇の自動販売機だけが妙に白く光っている。鵜飼原継真は店へ入る前に一度だけ通りを振り返り、自分たちを追ってくる車がないことを確かめた。倉庫街からここまで、乗ったタクシーを途中で降りて徒歩へ切り替え、さらに人通りのある商店街を迂回している。そこまでしても胸の奥に貼りついた警戒は消えず、コートも持たず作業着のまま歩いてきた身体には、夜明け前の冷気がじわじわ染み込んでいた。
受付では、眠そうな若い店員が二人分の身分証を求めた。継真が社員証ではなく運転免許証を出す横で、洲脇雛菊は学生証を差し出し、「ペア席でお願いします」と何の迷いもなく言った。継真はすぐに「別でいい」と訂正したが、雛菊は本気で理由が分からない顔をする。最終的には継真が広めの個室を一つ取り、雛菊は隣の個室へ入るという形で落ち着いたものの、彼女は受付を離れるまで何度も「護衛なのに壁があります」と不満そうに呟いていた。
個室へ入ると、安い消臭剤と古いカーペットの匂いが混じっていた。低い机、くたびれた合皮の座椅子、壁に埋め込まれた小型モニター。継真は靴を脱ぐより先に扉の鍵を確認し、黒い手帳を机の上へ置いた。漫画を読むために借りた場所ではない。人目を避けて中身を確認し、今後どう動くかを決めるための一時的な避難所だった。
ほどなくして、雛菊がノックもせず扉を細く開けた。継真が顔を上げると、彼女はコンビニ袋を片手に立っている。
「鍵、かかってました」
「かけたからな」
「開けました」
「どうやって」
「簡単な鍵なので」
その説明だけで十分嫌な予感がした。継真が何も言わず見ていると、雛菊は「壊してませんよ」と付け加え、当然のように中へ入ってくる。袋からペットボトルの水とサンドイッチ、それに小さなカッププリンを二つ取り出した。
「継真さん、何も食べてないですよね」
「お前もだろ」
「私はプリンがあります」
「それは飯じゃない」
「卵と牛乳なので、かなり飯寄りです」
継真は反論する気力を失い、サンドイッチだけ受け取った。夜勤前に食べたおにぎりから何時間経ったのか考えると、空腹を自覚した途端に胃が重く痛んだ。殴られた腹部とは違う場所だった。
雛菊は継真の向かいへ座り、プリンの蓋を丁寧にはがした。右手で小さなスプーンを持ち、左手では拳銃をパーカーの内側へ収め直す。制服姿の少女が甘いものを食べながら武器を扱う光景に、継真の感覚のほうがおかしくなりそうだった。
「それ、そんなに大事なんですか」
雛菊がプリンを一口食べながら、黒い手帳へ目を向けた。興味があるというより、継真がいつまでも同じものを見ている理由が分からないらしい。
「大事かどうかは中身次第だ」
「でも、さっきの人たちは欲しがってましたよね」
「欲しがってたどころじゃない。何人も使って俺を消そうとしてる」
継真は表紙へ指を置き、慎重に開いた。最初に見た時と同じく、ページには細かな数字と記号が並んでいる。数字そのものは普通だが、規則が見えなければただの羅列にしか見えない。けれど物流会社で請求書や配送伝票、運賃表を繰り返し見てきた継真には、数字の並び方に見覚えがあった。
「これ、日付だ」
「分かるんですか?」
「左端。二〇、〇六、一三。その下が二〇、〇六、一五。西暦を抜いて月日だけ書いてる」
雛菊が身を乗り出したため、黒髪が肩から滑り落ちた。継真は手帳を少し自分側へ引き、指で一列を示す。
「その横の六桁から九桁の数字は、たぶん金額だ。区切りを省いてるけど、請求書の集計と同じ並び方をしてる」
「六桁っていくらですか」
「十万から九十九万」
「九桁は?」
「一億以上」
雛菊は「へえ」とだけ言い、またプリンへ戻った。驚くところではないらしい。継真はページをめくりながら、自分の呼吸が少しずつ浅くなるのを感じた。数百万円程度の数字ならまだ理解できる。だが数千万、数億に見える記録が、ほぼ毎週のように並んでいる箇所がある。さらに金額の横には《KDO》《HKK》《港二》《土政》《西管》といった略号らしき文字が付いていた。
「企業名か部署名を潰してある」
「暗号ですか?」
「そこまで凝ったものじゃないと思う。見た人間がすぐ意味を分からない程度に省略してるだけだ」
《港二》が港湾第二何かを指すのか、《土政》が行政関係の部署なのかは断定できない。しかし、物流に関わる会社なら内部書類で部署名を二文字や三文字へ短縮することは珍しくなかった。誰が見ても読めない暗号では、使う側まで困る。これは隠すためだけではなく、日常的に参照するための記録なのだと継真は考えた。
ページを進めると、《冥堂会本部》という明記の周囲にも複数の数字が並んでいた。そこだけ略さず正式名称を残している理由は分からない。けれど、少なくともこの手帳が一度きりの取引を記したものではないことは見えてくる。何年分かの金の流れが、誰かの手で継続的に書き足されている。
「これ、帳簿じゃないのか」
継真はほとんど独り言のように言った。
「黒いから黒い帳簿ですか?」
「そういう意味じゃない」
雛菊は二つ目のプリンへ手を伸ばしかけ、継真に見られていることへ気づいて止めた。
「食べます?」
「いらない」
「じゃあもらいます」
嬉しそうに蓋を開ける様子を見て、継真は軽く息を吐いた。自分の手の中にあるものが何人分の人生を壊せるのか想像もできないのに、雛菊は本当に興味がない。それは無関心というより、金や組織の力そのものを恐れていないからなのかもしれなかった。
「そんなに大事なら、売れます?」
「売る相手を間違えたら、その場で殺される」
「じゃあ売らないほうがいいですね」
「今はな」
継真は手帳を閉じず、同じ数字が別のページで繰り返されていないか目で追った。金額が動いた日付の前後には、物流会社で大口荷物が入った日と一致しそうなものもある。完全に記憶しているわけではないが、月末や五十日ではない中途半端な日に大型車両が増えたことを、彼は何度か覚えていた。
「警察に持っていったらどうですか?」
雛菊が唐突に言った。継真は顔を上げた。
「意外だな。お前からその言葉が出るとは思わなかった」
「困った時は警察って学校で習いました」
「殺し屋が言う台詞じゃないだろ」
「私、学校では普通の生徒なので」
普通という言葉の意味を問い直したくなったが、継真はやめた。警察へ持ち込む案そのものは、倉庫から逃げた時点ですでに考えている。むしろ一般人なら最初に選ぶべき方法だろう。
それでも足が向かなかった。会社の主任は自分を運搬役へ使い、社員二人は事前に逃げ、襲撃者は顔と名前を知っていた。それだけの情報が複数へ流れていたなら、誰かがどこかで止められたはずだ。それでも実際には、港湾倉庫で人間一人が消される段取りが進んでいた。
「冥堂会がこの街でどれくらい長くやってるか知ってるか」
「名前は知ってます。仕事で何度か関係者に会いました」
「だったら分かるだろ。こんな金が企業や役所まで流れてるなら、警察だけ無関係だって決めつけるのは危ない」
「警察にも悪い人がいるかもしれないってことですか?」
「いると決めてるわけじゃない。けど、どこまで信用していいか確認する材料がない」
継真は自分でも、ひどく疑い深いことを言っていると思った。だが数時間前まで自分の上司だった男が、自分を殺す側へ情報を渡していた可能性が高い。所属や肩書だけで人間を信じるには、今夜の出来事は十分すぎた。
雛菊はプリンを食べ終えると、空の容器へスプーンを入れて袋へ戻した。それから何でもないことのように言う。
「だったら私が守ります」
継真は手帳から目を上げた。
「簡単に言うな」
「簡単ですよ。継真さんの近くにいて、危ない人が来たら止めます」
「お前、自分を狙う奴まで増えた可能性あるだろ」
「ありますね」
「俺にはお前を雇う金もない」
「いりません」
雛菊は即答した。継真が黙って見返していると、彼女はむしろ不思議そうに眉を下げる。
「好きな人を守るのに料金をもらうんですか?」
「少なくとも殺し屋なら仕事として金を取るんじゃないのか」
「仕事なら取ります。でもこれは仕事じゃないです」
「じゃあ何なんだ」
「恋です」
迷いがなかった。継真は額へ手を当て、目を閉じた。まだ出会って数時間なのに、雛菊の中ではすでに自分を守ることが当然の前提になっている。好意を向けられることに慣れていないという問題ではない。通常なら時間をかけて築かれるはずの距離を、彼女だけが一息で飛び越えてくる。
「それと、今日ここで寝ますよね」
「寝るしかないだろ」
「じゃあ私もここにいます」
継真が目を開けると、雛菊は自分の荷物を隣の個室から持ってくるつもりなのか立ち上がっていた。
「待て」
「はい?」
「何で同じ部屋にいる前提なんだ」
「寝てる間に襲われたら困ります」
「隣にいろ」
「壁があるじゃないですか」
「壁があるための個室だ」
「でも私、さっき鍵を開けられましたよ」
「お前が開けられることは安心材料じゃない」
雛菊はしばらく考えたあと、座り直した。納得したわけではなく、継真が嫌がっているから一度保留にしただけの顔だった。
「継真さん、寝相悪いですか?」
「関係ない」
「歯ぎしりします?」
「帰れ」
「護衛なので帰れません」
その押し問答を続けている最中、机の上に置いた継真のスマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見た瞬間、室内の空気が変わった気がした。主任だった。
継真はすぐには出なかった。着信音を聞きながら、数時間前に黒い鞄を手渡した男の顔を思い出す。断った時には視線を逸らし、受け取った瞬間には安堵した。倉庫へ向かう車には自分だけ残され、同行した社員二人は何も言わず消えた。
三度目の振動が来たところで、継真は雛菊へ人差し指を立てて黙るよう示し、通話へ出た。
「はい」
『鵜飼原か?』
主任の声には、わざとらしいほどの焦りが混じっていた。
『お前、今どこにいる。大丈夫なのか?』
「何がですか」
『いや、車が事故に遭ったって聞いてな。運転手とも連絡がつかん。お前も乗ってただろ』
継真は返事を急がず、わざと数秒黙った。事故という言葉をどういう意味で使っているのかを測る。襲撃を知らないふりをするための言い訳なのか、それとも運転手が襲われたことだけは事実として処理するつもりなのか。主任はその沈黙に耐えられなくなったように、「怪我してないなら返事しろ」と続けた。
「少しぶつけましたけど、大丈夫です」
『鞄は?』
早かった。安否を確認するより、ほとんど反射で出た問いだった。
継真は目の前の雛菊を見た。彼女も主任の声を聞こうとしているのか、身体を少し前へ寄せている。継真は平静な声を作った。
「分かりません。途中で何が起きたか、よく覚えてなくて」
『分からないって何だ。お前が持ってただろ』
「殴られて、それから逃げたので」
電話の向こうで短い沈黙が生まれた。継真はその長さを覚えておく。主任は自分が生きていることへ驚いているのか、鞄を失ったことへ焦っているのか。どちらにしても、先ほどまでの芝居がかった心配は消えていた。
『いいか、明日の朝、会社へ来い。八時までにだ。勝手に警察へ行くな。こっちで事故の処理をする』
「警察に行ったら困るんですか」
『そういう意味じゃない。会社の車で起きたことだから、まず報告が必要なんだ』
主任の声が少し強くなる。その直後、受話口の向こうで紙をめくる音がした。さらに別の人間の低い声が混じる。
『……手帳はまだ――』
そこで音が途切れた。主任が電話を手で塞いだのかもしれない。しかし継真には十分だった。
「主任」
『何だ』
「誰かいるんですか」
『いない。とにかく八時までに来い。話はそこで聞く』
「分かりました」
継真はあえて従順に答えた。主任は念を押すように時間を繰り返し、それから通話を切った。
画面が暗くなっても、継真は数秒スマートフォンを耳元へ当てたままだった。胸の奥で、曖昧だった疑いが一つずつ形になっていく。主任は黒い鞄だけではなく、その底に手帳があることを知っている。しかも今、そばにいた別の誰かも同じものを探していた。
雛菊が机越しに顔を覗き込んだ。
「会社、行くんですか?」
「行けって言われた」
「危ないですよね」
「たぶんな」
「じゃあ一緒に行きますね」
継真が返事をする前に、雛菊は嬉しそうに笑った。その笑顔だけなら、明日の待ち合わせを取りつけた高校生にしか見えない。だが彼女の右手は自然にパーカーの内側へ触れ、そこにある拳銃の位置を確かめていた。
「継真さんを殺そうとした人、まだいますよね?」
継真は黒い手帳へ視線を落とした。朝八時。主任は自分が何を持ち、どこまで知ったのか確かめるつもりなのだろう。会社へ戻れば罠かもしれない。それでも、今夜自分を二百万円にも満たない仕事の駒のように扱った人間たちが、何を隠しているのかを知らずに逃げ続ける気にもなれなかった。
黒い表紙を閉じると、薄い革の下で紙束が小さく鳴った。その音を聞きながら、継真は初めて、手帳をただ捨てるのではなく、自分の側から相手を見るために使えるかもしれないと考えていた。
喫茶店の厨房に積まれていた空の酒瓶が、誰かの肘に触れて小さく鳴った。鵜飼原継真はその音へ振り返る余裕もなく、洲脇雛菊に背を押されながら狭い搬入口を抜けた。正面入口には二人、窓際には一人、さらに裏手へ回った車にも人間がいる。店内へ踏み込んできた男はいたものの、客へ手を出すでも継真をその場で捕らえるでもなく、注文もせず入口付近へ立っただけだった。厨房の店員が不審そうに声をかけたため、その僅かな間を使って継真たちは裏へ回ったが、敵が本気で店内へ突入するつもりなら、そんな時間は与えられなかったはずだった。「継真、本当に悪かった」河芽信人が背後から追ってくる。逃げるように促したのは継真だったが、声にはまだ泣き出しそうな震えが残っていた。「謝るのはあとでいい。お前は店から離れろ」「でも、お前らは」「家族を見張られてるなら、俺と一緒にいるほうが危ない。連絡してきた奴には、俺が裏口から逃げたってそのまま報告しろ」信人は納得できない顔をしたものの、反論する時間はなかった。裏口から出た先は、喫茶店と古い事務所ビルに挟まれた細い通路になっている。ゴミ収集用の箱と室外機が並び、二人並んで走れば肩が擦れる程度の幅しかない。雛菊が先に角を確認し、継真へ小さく手招きした。「今なら行けます」継真は信人へ一度だけ目を向けた。「戻れ。俺と会ったことは隠すな。隠したら向こうに疑われる」「……分かった」「妹さんと母親の写真は消すな。番号も全部残せ」信人が頷くのを確認し、継真は雛菊を追った。数歩進んだところで背後の店内から扉の開く音が聞こえたが、振り返らない。追ってくる足音はすぐにはなかった。そのことが、むしろ気になった。通りを二つ抜け、配送センターの裏手へ続く古い倉庫街へ入ったところで、継真は速度を落とした。雛菊もすぐ合わせて歩き方を変える。右腕にはまだ琴葉から巻かれた包帯があり、走ったせいで制服の袖口から白い端が少し覗いていた。「追ってきませんね」「店の外で待ってた時も同じだった」「同じ?」「信人は俺があそこへ行く時間まで送ってる。相手には、もっと前から準備する時間があった。それなら店の中へ入った瞬間に囲めたはずだ」継真は歩きながら、さっきの配置を頭の中へ並べ直した。正面、側面、裏。車も複数用意されていた。それほど準備しているのに、客がいる店内では襲わず、こちらが
午前九時を過ぎても、配送センター周辺には夜勤明けの匂いが残っていた。大型車の排気と濡れたアスファルト、荷台から漏れる段ボールの乾いた匂いが混じり、鵜飼原継真にはつい昨日までの日常がそのまま続いているように見えた。だが、胸元には黒い手帳があり、少し離れた場所には自分を守ると言い張る殺し屋の少女がいる。見慣れた街並みのほうが、もう自分だけを置き去りにして普通の顔をしているようだった。継真が選んだのは、以前から夜勤明けによく使っていた喫茶店だった。配送センターから歩いて五分ほどの古い店で、入口のガラスには手書きのモーニングメニューが貼られている。昼前には運送会社や整備工場の人間で混むが、この時間なら客はまだ少ない。店内を見渡した継真は、入口と窓の両方を視界へ入れられる奥の席を選び、洲脇雛菊には少し離れたカウンターへ座るよう頼んだ。「隣じゃ駄目ですか?」「お前がいると、信人が余計に警戒する」「私、普通の高校生に見えますよ」「昨日からその言葉を信用できなくなった」雛菊は少し頬を膨らませたものの、素直にカウンターへ移った。制服姿でカフェオレを注文し、メニューに載った厚焼きトーストを真剣に眺めているだけなら、確かに周囲の客から浮いてはいない。けれど鏡張りの柱を使って継真の姿を確認し、一度も完全には視線を外さない。その目の動きを知っている継真には、どれほど自然に座っていても彼女が護衛を続けていることが分かった。河芽信人が現れたのは約束の時刻を六分過ぎた頃だった。二十二歳で、昨年まで同じ配送センターにいた元同僚である。契約終了後に別会社へ移ってからも、ときどき仕事の愚痴を送り合う程度の付き合いは残っていた。普段なら入店した瞬間から手を上げて笑う男なのに、今日は継真を見つけたところで足を止め、まず店内を一周するように見回した。「……生きてたんだな」最初に出た言葉がそれだった。継真は返事を急がず、信人の顔を見た。目の下には寝不足らしい影があり、右手はジャケットのポケットへ入れたまま出てこない。心配していた人間の顔にも見えるが、驚きのほうが強すぎる。「死んだと思ってたのか」「いや、そういう意味じゃなくて。昨日、会社で事故があったって聞いたから」「事故、ね」信人はそこで目を逸らした。店員が水を持ってくると、まだ注文も決めていないのにアイスコーヒーを頼み、グラスへ
後部座席のドアノブがもう一度外側から引かれた。ロックが外れないと分かると、窓へ顔を寄せた男が苛立ったように唇を歪め、「降りろ」と低く言う。鵜飼原継真はその顔を見返しながら、隣の洲脇雛菊へ視線だけを動かした。彼女の右手はバッグの中へ入っていたが、さっき継真が告げた「まだだ」という言葉を守り、銃を抜こうとはしていない。前後を塞ぐ車、歩道を行き交う通勤客、怯えた運転手。ここで一発でも撃てば、相手だけではなく無関係な人間まで巻き込む可能性がある。「まだ殺すな」継真が改めて言うと、雛菊は小さく頷いた。「分かりました」不満は見えなかった。むしろ、どうすれば条件を守ったまま継真を守れるのかを考えているように、琥珀色の瞳だけが静かに男たちの位置を追っている。右側に二人、左側に一人、前方のワゴン付近に二人。上着の内側へ手を入れている者はいるが、まだ銃口は見えない。継真がそこまで確認した瞬間、運転席側の窓を叩いていた男がドアを開け、運転手の肩を掴んだ。「降りろ。巻き込まれたくなきゃな」運転手は青ざめ、シートベルトを外そうとする。継真は止めなかった。ここへ残せば人質に使われる可能性があるし、逃げられるならそのほうがいい。運転手が震える足で外へ出て歩道側へ逃げた直後、後部座席の右側にいた男が窓ガラスを硬い物で叩いた。「雛菊」「はい」「人がいる。銃は最後まで抜くな」「では、手でやります」あまりにも自然な返事に、継真は一瞬だけ言葉を失った。次の瞬間、ガラスに二度目の衝撃が入り、亀裂が走る。雛菊はロックを外して自分からドアを開け、外にいた男の体勢を崩した。相手が想定していなかった方向へ扉が押し出され、膝がわずかに曲がった瞬間、彼女は男の手首を掴んで身体を回し、そのまま路面へ押さえ込む。別の男が背後から腕を振り上げたが、雛菊は振り返るより先に肩を沈めてかわした。肘を相手の脇腹へ入れ、呼吸が止まったところで足を払う。倒れた男の頭が道路へ直接ぶつからないよう襟元を掴んで勢いを殺したことに、継真は遅れて気づいた。いつもの彼女なら、そこまで加減する理由はなかったはずだ。「継真さん、これなら大丈夫ですか?」「確認してる場合か」「大事なので」言いながら、雛菊は三人目の腕を取った。関節を逆方向へ曲げかけたところで一度止まり、何か考えるように手の位置を変える。それから痛みで抵抗で
会社へ向かうには、歩き続けるより車を使ったほうが早い。鵜飼原継真は駅前のロータリーで流しのタクシーを止めると、洲脇雛菊を先に後部座席へ乗せ、自分もその隣へ滑り込んだ。運転手へ物流会社近くの交差点を告げ、会社名そのものは口にしない。濃紺のセダンがまだ遠くからついてくるのをサイドミラーで確認しながら、継真は黒い手帳の入った内ポケットへ無意識に手を当てた。車が大通りへ出ると、雛菊は窓の外へ顔を向けたまま「監視の車、まだいますね」と言った。声は明るいが、視線はガラス越しに後方の流れを拾っている。学校で小テストの点数を気にしていた時とは別の集中が戻っているのに、彼女自身には切り替えた自覚すらないようだった。継真はその横顔を見ながら、昨日から何度も頭へ浮かびながら後回しにしていたことを、ここで決めるしかないと思った。「雛菊」「はい」「護衛の話、ちゃんと決めるぞ」彼女はすぐに継真へ向き直った。琥珀色の瞳がぱっと明るくなり、肩までわずかに弾む。「契約ですね!」「何で嬉しそうなんだ」「継真さんと契約できるんですよね?」「そういう言い方をするな」継真は低く返し、前席の運転手がバックミラー越しに一度だけこちらを見たのを確認した。会話の内容が聞かれて困る状況ではあるが、途中で別の場所へ降りるつもりなので、細部まで理解されなければ問題はない。それより、雛菊が善意だけで自分の前へ立ち続ける今の状態のほうが危険だった。「昨日から、お前は勝手に俺を守るって言ってる」「はい」「そのせいで怪我もした」「かすり傷です」「そこを軽く扱うなってさっき言っただろ」雛菊は包帯の覗く右腕を見て、「そうでした」と素直に頷いた。継真はその反応に軽く息を吐き、言葉を選ぶ。彼女を止めたいわけではない。今この街で自分を守れる人間が必要なのも事実だ。それでも、好きだからという一言だけで命を張られ、その結果を全部雛菊自身の責任にしてしまう形だけは受け入れたくなかった。「好意だけでやらせる気はない。護衛なら条件を決める。俺が頼んだ仕事として、何をするか、どこまでやるか、先に決める」「報酬もですか?」「払える範囲なら」「いりません」即答だった。継真が黙ると、雛菊はむしろ不思議そうに首を傾げる。「昨日も言いましたけど、好きな人を守るのにお金をもらうんですか?」「仕事にするって言ってる」
午前七時を回った頃、鵜飼原継真は駅前のコインロッカーから預けていた荷物を取り出し、スマートフォンの画面をもう一度確認した。《黒い手帳を返せ。午前九時、会社で待つ》。送信元は登録のない番号で、返信しても既読表示すらつかない。主任からは八時までに来いと言われ、別の誰かからは九時を指定されている。会社の中で意思が統一されていないのか、それとも二つの時間を使ってこちらの動きを測ろうとしているのか、まだ判断できなかった。黒い手帳は作業着の内側に入れ、さらに薄いビニール袋へ包んでいる。金額らしき数字と《冥堂会本部》の文字が並ぶものを持ち歩くこと自体が馬鹿げていると分かっていても、置き場所を探している余裕はなかった。会社へ向かう前に人目のある場所でどう動くか考えるつもりだった継真は、隣で制服の襟を整えている洲脇雛菊を見て眉を寄せた。右腕には槙埜琴葉が巻いた白い包帯があり、袖口からわずかに覗いている。「じゃあ、その前に学校へ行きます」雛菊はごく自然に言った。「……何の話だ」「学校です。今日は一限目に数学の小テストがありますので」継真はしばらく返事ができなかった。昨夜から襲撃を二度受け、殺害依頼を破棄したせいで雛菊自身も狙われている可能性があり、九時には黒い手帳を要求する人間が会社で待っている。その状況のどこに小テストを差し込む余地があるのか、頭の中で順番を入れ替えてみても答えは出なかった。「休め」「嫌です」「命を狙われてるんだぞ」「でも欠席すると補習なんです」「補習と命を同じ秤に乗せるな」「補習、放課後に一時間半ありますよ」雛菊は深刻そうに眉を下げた。継真が冗談かどうか見極めようとしても、その表情には本物の嫌悪しかない。「しかも担当が田名部先生なんです。途中式を書かないと全部やり直しなんですよ。答えが合っててもです」「教師として普通だろ」「すごく厳しいです」「殺し屋より怖いのか」「数学の補習は撃って終わらせられませんから」継真はこめかみを押さえた。琴葉から《不死身》と呼ばれている理由を聞いてまだ一時間も経っていない。銃創や刃物傷を負っても仕事へ戻る少女が、補習だけは本気で避けたがっているという事実が、どうにも頭の中で噛み合わなかった。「小テストだけ受けて、すぐ戻ります」「学校に何か持ち込む気じゃないだろうな」「武器ですか?」「他に何が
漫画喫茶の個室に差し込む朝の光は、窓のない店内では時計の表示でしか分からなかった。午前六時四十分。鵜飼原継真は机の上へ伏せていた黒い手帳を鞄代わりのビニール袋へ戻し、長く息を吐いた。眠ったつもりはほとんどないが、二時間ほど記憶が飛んでいる。隣の個室にいるはずの洲脇雛菊へ声をかけようと立ち上がったところで、床に小さな赤黒い点が落ちていることへ気づいた。最初は誰かがこぼした飲み物かと思った。しかし点は個室の入口から廊下へ続き、その先で途切れている。継真はしゃがみ込み、指先を近づけるまでもなく、それが乾きかけた血だと分かった。昨夜、自分は頬を切り、腹を殴られたが、出血するような傷はもうない。視線を上げると、ちょうど隣の扉が開き、雛菊がコンビニの袋を片手に戻ってくるところだった。「おはようございます。継真さん、コーヒー飲めます?」「腕を見せろ」「はい?」雛菊は袋を持ったまま立ち止まった。黒いセーラー服の袖口、その右側だけがわずかに濃い色へ変わっている。継真が近づいて手首を掴むと、彼女は抵抗せず、むしろ何をされるのか興味深そうに見上げた。袖を肘まで捲ると、細い腕の外側に布を裂いたような傷があり、簡単に巻かれたガーゼが赤く染まっていた。「これ、いつやった」「昨日です」「昨日のいつ」「倉庫で最初の人たちと会った時だと思います。たぶん金属片が当たりました」「思います、じゃないだろ」継真は思わず声を低くした。雛菊は叱られた理由が分からないように傷口を見下ろし、それから「ああ」と小さく頷く。自分の身体のことなのに、他人から指摘されて初めて思い出したような態度だった。昨夜から何度も腕を動かし、銃を扱い、走り続けていた。それなのに痛いとも動かしづらいとも、一度も口にしていない。「血、止まってないじゃないか」「減ってますよ。昨日より」「病院行くぞ」「普通の病院はちょっと」「保険証がないとか言うなよ」「あります。でも、この程度で普通の病院へ行くと説明が面倒です」雛菊は笑って答えた。学校へ遅刻した理由を説明したくないという程度の軽さだったが、継真はその笑顔を見ても安心できなかった。銃撃や殴打があった場所で負った傷を、病院でどう説明するつもりなのかという問題は確かにある。それでも、だから放置するという結論へ迷いなく進める感覚は理解できなかった。「じゃあ、どこ







